見たので記録。
“テクノ”と呼ばれる人型ロボットが、一般家庭にまで普及した未来世界。茶葉の販売店を営むジェイク、妻のカイラ、中国系の幼い養女ミカは、慎ましくも幸せな日々を送っていた。しかしロボットのヤンが突然の故障で動かなくなり、ヤンを本当の兄のように慕っていたミカはふさぎ込んでしまう。修理の手段を模索するジェイクは、ヤンの体内に一日ごとに数秒間の動画を撮影できる特殊なパーツが組み込まれていることを発見。そのメモリバンクに保存された映像には、ジェイクの家族に向けられたヤンの温かなまなざし、そしてヤンがめぐり合った素性不明の若い女性の姿が記録されていた……
―公式サイト引用―
映画や本は他人に紹介されたものでないと手に取ることができない。あまりにも作品というエンタメがこの世に溢れすぎていて、思考停止して選べない。
今回はヨルシカとかやってるn-bunaさんが、ラジオで言及しているのを聞いたので見てみることにした。
SFに分類されているが、作中のSF要素は些細なものだ。我々オリジナルの人間と遜色ないAIロボットやクローンが存在する世界観が根底にあるだけ。描かれるのは現代の人間の暮らしとほとんど差異のない1つの家族である。
静謐な作品だった(これを起伏がなくて退屈な作品と感じる人が一定数存在するのも頷けるが)
終わりは始まりなのか。終わりとは無なのか。それは寂しいことなのか。
ヤンは「終わりが無であっても気にしない。無がなければ有も存在しない」と語る。
混沌とした現状を生きる自分の思考と似ていて、鑑賞した後もいろいろと考えてしまった。まあグルグル考えても、死後の世界がどんなものなのか、どんな体験が自分を待ち受けているのか、そもそもそんなもの存在するのか。そんなことは生きている限り絶対にわからない云わば人生を懸けたシュレティンガーの猫なのだから。とりあえず我々はこの人生を全うするしかないわけで。
コゴナダ監督の作品は初めて見たが、画角の切り取り方というか、画面に映る映像があまりにも繊細で美しくて息を呑むものばかりだった。私は趣味でたまに写真を撮るが、やはり美しい画にするためには美しいものを計算された場所に配置することが大切だと痛感する。塵も撮り方によっては美しく成りえる理論は重々分かるのだが、それは受け取り手がその画を価値観やセンスを以ってして咀嚼する必要があると思う。パッと見て美しいと感じるものは、やはり映りこむもの全てがそこに美しく存在している必要があるのだなと改めて感じた。
あと、作中に出てくる歌および主題歌がリリーシュシュのグライドです。そんなこと全く知らずに見ていたので、急に自分が好きな歌が扱われていてびっくりしちゃった。
幼女が歌うグライドなんてエモいに決まってるだろうが。この映画の終わり方、私すごく好き。