ここ最近、生きることについて考える機会が増えた。
20代の自分が経験するには些か早すぎるのではないかとさえ思うが、否が応でも死別と向き合わなければならない事象がこの半年で起こったのだ。
一つ目は知人の死。
彼女と私の接点は同じコミュニティに所属しているということだけだった。
天真爛漫で誰からも愛され、ネガティブとは対極にいるような人間に見えていた。
後日、自死であったと聞いた。報告を受けて皆動揺していたが、以降も彼女の存在をタブーとして扱うことはなく、過去の話題を語らう際にはよく彼女も登場する。
ただその反面、命が潰えた生物は、これから新しい記録が紡がれることはないのだと度々思い知らされるようになった。
二つ目は、両親の病気。
まだ還暦にも満たない両親が病に伏した。
それぞれの医者から半年後、1年後の話をされた。
遺伝子を継ぐ私は平均寿命を全うできる可能性も大いにあるが、同じ運命を辿るリスクも他人と比べると高いらしい。
片方の親だけならまだしも、両親共々。また後日、叔母からも同じく病の報告があった。
病室で母から双方の親族たちの話をされ、自分の家系に戦慄する。まさしく私は地獄のハイブリット遺伝子を持って生まれていたのである。
これからの自分の人生について考える。
兄弟や従兄弟などいない私は、さして遠くない未来で天涯孤独になるだろう。
あくまで他人よりリスクが高いだけと言われたが、悲観した方向で物事を捉えてしまうのは幼少からの悪い癖だ。地獄のハイブリット遺伝子ならば、私は両親よりもっと早い年齢で病を発症したりするのだろうか。生憎、結婚しないだろうし友人も少ない。私は医療関係者に看取られながら孤独に旅立つのだろうか。
また、来世について考える。
来世は存在するのだろうか。というか来世ってなんだ?
調べてみると、「死後に生まれ変わる世界」のことを指す仏教の考え方らしい。
現代ではよく「来世に期待」や「来世で頑張ろう」などという使われ方をするが、ここで言う生まれ変わりは『強くてニューゲーム』の意味合いなのではないだろうか。
自分の経験やそれによって構築された価値観を持った状態で,新たに赤子として産声をあげる。
であれば、来世なんてないのではないかと思う。
輪廻転生で死んだ魂が新しい生命に生まれ変わるというサイクルは存在するのかもしれないが、あくまでもそれはもう新しい別個体であり、私の記憶が引き継がれるようなことはない気がするから。
今の私はきっとこの人生で終わり。
この脳味噌や心もきっと現世で終わり。
だからこそ、なるべく多くの物事を経験して、それに対して自分がどう感じるのかを大切にしたい。
仮にひとりぼっちの今際なのだとしたら,その瞬間に頭によぎる後悔はなるべく少なくしたいから…
若くて健康で元気に動ける今のうちにたくさんのことを経験して感じたい。
かくしてブログを始めてみました。
仮に天涯孤独に果てたとしても、ネットの海に私の生きた記録が残るという安直な考えです。
追記
この記事を執筆した数日後、推しが配信で来世についての考えを語っていたのだが、「今の自分が誰かの来世なのは嫌」と言っていて、おもわず「それダァ~~~~」と画面の前で唸ってしまった。
ずっと屁理屈みたいな考え方で悶々と思考していたけれど、この一言でものすごく脳が痺れた。
これだよ、この衝撃なのだよ。私が現世で経験したい「感じる」っていうことは。